美味しいお店を見つけたら、その存在をより多くの人に知ってもらいたい。
そしてそのお店に少しでも多くの人たちが足を運んでくれたなら、きっとお店にとってもメリットになるかもしれない。
と、なんとなくそんなノリではじめたこのブログ。
お店をブログで紹介する時はできるだけ「良いお店だな」と、そんなふうに思ってもらえるように書きたいと思っている。
でもだからといって嘘は書かない。
美味しくもない料理を「美味しい」だなんて、そんなことは間違っても書きたくない。
またその反対に、実際に料理が美味しかったとしても、それをただ「美味しい」と書いただけではきっと読んでくれている人たちには何も伝わらないだろうな、とも思う。
お店の魅力を十分に伝えるためには何か工夫が必要だ。
ということで、お店を紹介する際には「嘘は書かず」かつ「お店の良さを十分に伝える」ために2つの工夫をすることにした。
まず1つ目の工夫は、お店を紹介する際は「良いところは大いにホメちぎる」こと。
これならば多少の誇張はあるにせよ、でも決して嘘ではない。
これは料理の美味さを伝えるためにはどうしても必要となる演出、もしくは脚色であり、つまりはあくまで「表現」の範疇だ。
そして2つ目の工夫。
それは、もし訪れたお店で「あれ?」とか「うん?」なんて思うことがあったとしても、そんなときは そっ と目を伏せて何も見なかったことにするとうこと。
これは余計な波風立てずに世の中を上手く渡っていくための大人の知恵ってやつでもある。
しかし、時にはどうにも手の付けられないお店に出会ってしまうことがある。
どんなに工夫をこらしてみても、どうにもこうにも始末に負えない。
そういうお店に出会ってしまった時は、そのお店のことをブログでは紹介せず、その店で体験したり感じたりしたアレコレは心の奥底へと葬り去る。
ところが、そんなお店たちの記憶はまるで地縛霊のように黒い霧となっていつまでも心の片隅でモヤモヤと漂い続ける。
これがまたじつに気持ち悪い。
そんなお店たちの記憶を吐き出して成仏させ、心の健康を保つために作ったカテゴリーが「モヤっとするお店」だ。
今回は、そんなモヤっとするお店を3つほどご紹介したい。
やぁ諸君ごきげんよう。
ぼっちメシ研究所のジャムだ。
とある街中華のお店
最初にご紹介するお店は、60歳代のご夫婦が営む街中華のお店。
店内はL字型のカウンター席がメインとなるコンパクトな中華料理屋だ。
この店では何度か食事をしたのだが、いつでも満席。
しかも客は男性客のみで女性客はゼロ。
客は100%男性のみ。
なんだか男たちの飯場って感じ。
この店の料理は美味い。
何を食べてもハズレが無く、どの料理も町中華の平均レベルを軽く上回ってくる。
とくに餃子は絶品で、他のお店ではなかなか味わえないほどガッツーーンと派手にニンニクを効かせている。
それに料理の値段も安く設定されていて、麺類なら500円から、また定食類のご飯ものは800円前後と非常にお手頃。
昼食時にその辺のコンビニで弁当とお茶を買うよりも、この店で出来立ての中華料理を食べたほうが絶対に満足感が高い。
男たちがこの店に押し寄せるのも納得だ。
しかしこの店には致命的な問題がある。
それは雰囲気が異常に悪いということだ。
小さな店内にはいつも異様な緊張感が漂い、それが今にも破裂しそうなほどパンパンに張りつめている。
なんなら「殺気立っている」と言ってもいいくらいで、息が詰まりそうなほどの重苦しい空気が肌を突き刺す。
その空気の出どころは、この店を営むオーナー夫妻だ。
夫婦2人はいつでも不愛想で、かつ仏頂面がデフォ。
店に入っても「いらっしゃい」もなければ、店を出るときに「ありがとうございました」の声もない。
それがデフォ。
2人はいつもピリピリ・イライラとした空気を放ち、その姿はまるで手負いの野生動物そのものだ。
ちなみにご主人の身長は180cm前後で、体重のほうはおそらく90~100Kgほど。動物に例えるなら熊のような体格。
いっぽう奥様は小柄。強いて動物に例えるならアライグマ。小柄でも気が荒い。
気の立った熊が料理を作り、その料理を気の立ったアライグマが運んでくる。
なぜ夫婦2人ともそんな様子なのか?
いったい何が2人をそうさせるのか?
その原因はおそらく夫婦仲の悪さ。
初見でもすぐに分かるほど、2人の仲は悪い。
じつに険悪だ。
とはいえ家族の中のことは、その家族にしか分からない。
もしかしたら夫婦仲が悪いように見えても、店を離れて家庭に戻れば2人は案外と仲睦まじい夫婦なのかもしれない。
いやまぁ、そうとは思えないけれども。
さて、そんな夫婦のパワーバランス、つまり2人の力関係は、一方的にご主人に傾いている。
お店にはご主人による独裁体制がしかれている。
そのためか、ご主人は奥さんに対していつでも命令口調で、まるで下僕かなにかのように扱う。
「おい! はやく皿をもってこい!」
「おい! これとっくに出来ているぞ!」
「おい!」「おい!」「おい!」と、ご主人の言葉はいちいち攻撃的で、なにか口を開くたびに、トゲのある言葉が奥さんに投げかけられる。
それでも奥さんはご主人のキツイ言葉にただただジっと耐える・・・のかと思いきや、そんなことはない。
いや、耐えることには耐えてはいる。
ご主人に対して口答えはしない。そしてついでに返事も返さない。
しかしそれでも言われたことをただ黙々とこなす。もちろん仏頂面で。
しかし、ご主人からぶつけられるトゲのある言葉は、奥さんのココロの中に不満として蓄積される。
そしてその不満は、じっくりと培養され、徐々に純度を高め、やがて接客態度となって吐き出される。
奥さんの機嫌はあからさまに悪くなり、表情にも不満がにじみ出る。
ご主人は、そんな奥さんの態度の悪さを見てより機嫌を悪くし、不満を中華鍋にぶつけるかのようにカンカンカンと激しくオタマを打ち付けたり、食器類をガチャガチャと大きな音を立てて乱暴に扱ったりして奥さんに無言の圧力をかける。
それでも気が収まらなければ、ふたたび奥さんに厳しく当たる。
これでは奥さんが気の毒だ・・・と同情しかけるが、しかし奥さんは奥さんで客に対する態度が最悪。
ドイヒー。
とてもじゃないが同情なんてできやしない。
2人の間で際限もなく繰り返される憎悪と嫌悪の無限ループ。
その結果、店内の空気はどんどん険悪なものとなり、それが時間とともに煮詰められて濃縮されていく。それは決して薄まることは無い。
客たちはと言えば、だれもこの夫婦2人を刺激をしたくないからなのか、ただひたすら押し黙っている。
いつか訪れるかもしれないカタストロフィ(破滅)の予兆をすぐそばに感じながら、ビクビクとしつつも無関心を装い、無言で食事をかき込む。
せっかく料理が美味いしいのに、しかしその味をじっくりと楽しむことができない。
とてつもなく居心地が悪い空間。
それにいたたまれない気持ちになる。
メシが不味くなる。
とてもじゃないが、こんなお店を紹介することなんてできない。
まぁ、ご夫婦とも末永くお幸せに。
とある蕎麦屋
蕎麦の風味をもっともストレートに楽しむための食べ方が「もりそば」。
どこの蕎麦屋でもまず間違いなくメニューの筆頭に書かれていることだろう。
ご存じの通りもりそばは、蕎麦を料理として成立させるための最小限の要素、すなわち「蕎麦」「つけ汁」「薬味」の3つだけで構成されている。
蕎麦が「風味を味わうもの」だとすると、その風味を邪魔する余計なもの、たとえば天ぷらだとか、とろろ芋だとか、大根おろしだとか、そんな不純物の一切合切をばっさりと切り捨てている。
蕎麦の風味だけを一途に追い求めるその姿はじつに純粋(ピュア)だ。
とは言え、ピュアすぎるってのも時には考えものだ。
たとえば「最初は水でお召し上がりください」とか、または「まずは塩だけで・・・」なんてことになってくると、それはもうピュアというよりも「あぁ、なんか拗らせちゃってんなぁ」って感じが出てしまう。
ぶっちゃけウザい。
さて、そんなもりそばの最大のライバルといえば、やはりざるそばだろう。
言うまでもなくざるそばとは、もりそばの上に刻み海苔を散らしたもの。
両者の違いは海苔の有無。それでしかないのだが、世の中の蕎麦喰いたちの中には「ざるそば」にかけられた海苔を「蕎麦の風味を損なう」ものとして嫌う人たちも多い。
蕎麦が風味を味わうものだとすれば、刻み海苔の香りは蕎麦の風味を邪魔する存在。つまりは蛇足。不純物。
だから「蕎麦を食うならもりに限る」ってわけだ。
いや、分かる。その気持ち、めっちゃ分かる。
オネェ風に言うのなら「わぁ⤴ かぁ⤴ るぅぅぅ→」って感じ。
そう、蕎麦はシンプルなほど良い。
ふいに美味い蕎麦に出会ったときなど「水だけで食べてみたい」とか「塩だけで」なんて思いが頭の片隅をよぎる。そんな自分はけっこう拗らせちゃっているタイプなのかもしれない。
では「蕎麦に刻み海苔をのせたざるそばはダメなのか?」と問われれば、その答えはノー。
なぜなら海苔の風味と蕎麦の風味は相性がバツグンに良いからだ。
たっぷりと磯の香りを含んだ海苔は、蕎麦に特別なシナジー(相乗効果)をもたらしてくれる。
秋も深まったある日、美味しい蕎麦が食べたくなって、とある蕎麦屋へとお邪魔した。
注文したのは海苔ありのざるそば。
そばの上には刻み海苔がちらされていて、見た目はごく普通のざるそば。
しかし見た目に反して普通じゃないのは、そばの上に散らされている刻み海苔が「味付け海苔」だということ。
衝撃だった。これは初めてのパターン。
甘く塩辛い味付けが施された味付け海苔は、別名おかず海苔。
旅館の朝食なんかでもおなじみだ。
もちろん味付け海苔自体は嫌いじゃない。
醤油をたらした小皿に味付け海苔をちょんとつけ、炊き立てのご飯にのせればこりゃもう何倍でもメシが食える。
そこに味噌汁と漬物があれば、これはもう文句なしにサイコーの朝食だ。
しかし味付け海苔がもっとも強力なシナジー効果を発揮するのは、あくまで白飯と組み合わせたときであって、まちがってもその相手は蕎麦ではない。
いったいなんだってざるそばに味付け海苔を使たのだろう? これではせっかくの蕎麦の風味が台無しじゃないか。
ついそんな風に思ってしまったのだが、この蕎麦をひと口食べたとき、なぜ味付け海苔を使っているのかという疑問が一気に解決した。
更科蕎麦のように白い蕎麦は、驚くほど蕎麦の風味が無い。
まったく蕎麦の味がしない。
季節は秋。新蕎麦が出回る秋は、一年のうち蕎麦の風味がもっとも濃く、もっとも美味しい季節。しかもこの店は風味が強いことで知られる『常陸秋そば』を使っている。
ああ、それなのに。
この風味の無い蕎麦を食べさせるための味付け海苔だったのか。
なにしろ初めから蕎麦の風味がまったく無いので、味付け海苔といえど蕎麦の風味の邪魔のしようがない。
蕎麦の風味が無い理由は明らか。
それはツナギ、つまり小麦粉の分量が多過ぎる。
蕎麦粉と小麦粉の割合は半々か、もしくは小麦粉のほうが多いくらいだろう。
食べてみても蕎麦の食感とはほど遠く、みょうにツルツル、シコシコとしている。
まるで冷や麦を食べているようだ。
国産蕎麦粉の『常陸秋そば』は価格が高い。
だからもしかしたら蕎麦粉の量を減らすことでコストダウンを図っているのだろうか?
それにしても風味が無さすぎて、目隠しして食べたらこれが蕎麦だとは分からないだろう。
この蕎麦に比べれば、どん兵衛や緑のたぬきのほうがよっぽど蕎麦の風味が濃く、よっぽど蕎麦だ。
まさか『常陸秋そば』の故郷で、こんな蕎麦に出会うとは思ってもみなかった。
とあるお寿司屋さん
1年のうち、夏のほんのわずかな時期だけ味わうことができる寿司ネタがある。
それがシンコ。
漢字で書けば新子。コハダの稚魚。
その旬は8月の中旬ごろ言われているが、7月にもなれば出回りはじめる。
というわけで、最後にご紹介するお店はお寿司屋さん。
お店には数種類のランチメニューが用意されていて、いずれも価格は1,000円前後とお手頃価格。
で、この店も料理が美味い。
大将は60代後半くらい。
寡黙な職人さん、かと思いきや、話をしてみれば終始にこやかに対応してくれてとても感じがいい。
注文したのは握りずしのランチ。
メインの握りの他に、お吸い物、サラダ、揚げ物、デザートが付いてきて、お値段は1,000円ちょっと。
かなりお得だ。
値段を考えるとさすがに高級なネタは使われてはいない。
しかしランチの価格帯という限られた枠の中で、できる限り美味しいものを提供しようと精一杯の努力をしている。
握りは1つ1つが丁寧で、その端々から大将の誠実な人柄が伝わってくる。
この店を訪れたのは6月の中ごろ。
梅雨の蒸し暑い時期。
まもなく梅雨が明ければ、いよいよ本格的な夏がやってくる。
夏と言えば、シンコの季節の到来だ。
この店でシンコを食べてみたいと思った。
なにしろ大将の腕は確かだ。
握りはもちろんのこと、サラダも、揚げ物も、椀も、すべて文句なしに美味かった。
6月だからまだシンコは入っていないだろうな、とは思いつつも、しかし万が一ってこともある。
大将にシンコがあるか、と尋ねてみる。
「シンコ・・・? ああコハダですね?」
大将はしばらく間をおいてから「いやーすみません、まだ入ってきていませんね」と答えた。
そうか、やはりまだ早かったか。
じゃ来月、7月になれば、シンコが入ってきますかね?
「そうですねぇ・・・来月になれば入りますかねぇ・・・」
よし、来月か。
絶対にこの店でシンコを食べたい。
では、来月また来てみよう。
ということで、翌月7月の中旬を過ぎたころに店を再訪。
目的はもちろんシンコだ。
でもまずはランチメニューを注文する。シンコは最後に1つか2つ握ってもらえば十分だ。
で、注文したのはマグロ丼。
これがまた美味い。
使われているマグロは決して立派なものではないけれど、漬けにすることによって赤身の持つポテンシャルを最大限にまで引き出している。
さらに丼には小口切りのネギ、ショウガの酢漬け、刻み海苔、白ゴマなどが使われていて風味が豊かだ。
ちなみにマグロ丼のお値段は1,000円以下に設定されている。
マグロ丼を食べ終えて、追加で握りを注文。
その際に大将に尋ねる。
「あの、シンコって入ってます?」
「シンコ・・・? ああ、コハダですね?」
そうそう、コハダの稚魚のシンコね。
「いやーすみません、うちの店はコハダは扱ってないんですよ」
・・・は?
え? コハダを扱ってないの?
「ええ、うちはコハダは仕入れていないんですよ」
え?
え?
え?
すみませんと謝る大将の表情はにこやかで、その笑顔の屈託なさ。まさに無邪気な笑顔。
大将の話によると、この店ではいっさいコハダは扱っていないのだという。
今日だけコハダが手に入らなかった、というワケではない。ずっと前からコハダは仕入れていない。
おいおい。
そりゃおかしいだろう?
だって、ほんの1月ほど前、あの時はたしかに「来月になればシンコが入る」と言ってくれたはずだ。
コハダを仕入れていないのなら、来月だろうが再来月だろうが1億年後だろうが10兆年後だろうが、未来永劫永久永遠にシンコなんて出せるわけがない。
どういうことだよ、大将!?
ひょっとして嘘だったのか?
だとしても嘘をつく理由が分からない。
そんな嘘をつくメリットなんて無いはずだ。
とにかくこの大将、一見すると誠実そうに見えるが、なんだか信用できない。
別に実害はなにも受けたわけではない。
たとえば会計を誤魔化されたり、変なモノの食べさせられたりってことではまったく無い。
ただ、仕入れてもいないコハダ(シンコ)を仕入れているのように錯覚させられただけだ。
だから強いて損害を挙げるとすれば「心底落胆した」とうことくらいか。
食べ物に関わる仕事、とくに調理に携わる人間に嘘があってはいけないよなぁ・・・と、しみじみ思う。
信頼できない人間が作った料理なんて、怪しくて恐ろしい。
なんて思っていると、追加した握りが出てきた。
しかし、とてもじゃないがこれを口には入れたくはない。
握りには手を付けず、財布から一万円札をカウンターの上に置き、無言で店を出た・・・のだったらちょっとカッコが良かったかもしれない。
でもそうはぜずに、だいぶ悩んだけれども結局は握りを食べた。
美味い。
でも釈然としない。
だからいまだにモヤモヤとしている。